学力低下が問題にならない問題

なんか最近、学校に関係するニュースが多い。いじめだとか、履修単位不足だとか、学力低下だとか。こんな事が起こるのは当然のことだと思う。30年前から続けられてきた、現在のおよそ40才以下の人たちが受けてきたゆとり教育と、学力が必要とされなくなった社会とのためだ。

小学校・中学校では生徒の「関心・意欲・態度」も評価して成績がつけられる。観点別評価と呼ぶものの中で1番目に挙げられるものだそうだ。この成績が中学受験・高校受験において大きなウェイトを占める。多少成績がよろしくなくても「関心・意欲・態度」がよければ通知表の点数は良くなる。

観点別評価の思い出

ところで僕が中学生だった10年くらい前、僕はテストの点数は相当に高かったんだけども、内申点が僕よりずっと高い人が同級生にたくさん居た。
2年生とき、廊下で友だちとしゃべっていたら、そこを通りかかった英語の先生に声をかけられ、とにかく授業中に手を挙げてほしいと言われた。これに従って英語の授業中に手を挙げていたら通知表の英語の点数が上がった。このとき初めて観点別評価に気付いた。そういえば僕より通知表の点数が高い人は、まあテストの点数は悪くないけど素晴らしい八方美人ばかりだったなと。

学力なんて要らない

中学校まではすごく勉強ができなくても先生に媚を売れば成績を補える。でも高校ではそうもいかない。大学受験があるからだ。高校の勉強の話は履修単位不足のニュースでいろいろ言われてるから省略。授業時間が減ったとか、受験でいらない科目が必修だとか、大学進学率とか、地方に予備校が少ないとか。

で、大学には学力や知識を求めて行ってるわけじゃない。就職するために大卒の学歴が要るからだ。大卒者を採用する企業も学力を求めてるわけじゃない。もちろん、あまりにも物を知らないのは困るから、全員面接するのは大変だから、書類審査やペーパーテストをするけれど、ほとんどの企業なり公務員なりの採用では面接試験の成績を重視する。なぜか人物試験と呼ぶところも多い。数十分から数時間でその人物を見抜くことができる、超能力者のような人がたいていの職場には居るらしい。面接試験ではどんな人を高く評価するのかは知らないけど、学力の高い人でないことはすぐ分かる。本屋で売ってる面接マニュアルのようなものを見て、想像するには、社会は就職するという目的のためには堂々とウソをつく能力の高い人を求めているようだ。素直な人、正直な人は評価が低くなるようだ。こんな面接重視の採用を続けてきた結果、いわゆる不祥事を起こしてしまうような人ができたのだろうな、とも思う。ちょっと話が逸れてきた。

つまり小中高等学校への進学、大学を卒業して就職するに当たってそれほど高い学力は必要とされていない。学力が低下するのは当たり前だ。今の日本においてエリートとなるは、相手の求める人物像を演じる能力・技能が特に重要だからだ。小中学生のころから(人によってはもっと前から)そんなことを求められればストレスが溜まって当然いじめくらいは起きる。例外は高校と大学をつなぐ部分であって、そこで履修単位不足の問題が起こった。

結局何が言いたいかというと

学力低下の原因は、就職試験で面接試験を高く評価するようになったことにあると思う。もし面接よりも学校歴を重視すれば、学歴がいいほど職業選択の幅が広がるのだから、みんながもっと勉強するようになる。(就職した後の学歴差別は正当じゃないからだめだよ。)たとえ親がどんなに貧乏でも、勉強さえできれば好きな職業に就ける可能性が絶対に高まる。これこそが平等な社会だと思うのだけど、全員が同意するものではないだろう。主に親の収入の多少によって学歴の高低が決まる傾向があるから。格差が固定されるというもの。

それなのに、ここで学歴を重視することを否定してしまったのが間違いだった。よく学校で勉強して学力が高く学歴がよい人よりも、面接で堂々と嘘をつける人の方が職業選択の幅が広がる社会になってしまった。この状況では、学力低下は社会的な問題にはなっても個人的な問題にはならない。本当は学歴そのものではなくて、親の収入と学歴の相関を否定しなければならなかったのに。

学歴が高い人は、学校の勉強では国語も英語も数学も理科も地理も歴史も政治経済も平均的な人より良くできたことが証明されている。さらに人によっては、スポーツや歌や楽器や絵や工作も上手な人もいる。つまり大抵の事柄に対してコツをつかむのが上手い。この能力は、いろいろな仕事に関しても非常に役立つものだと思うから、もっと評価した方がいいと思うんだけどなあ。