東京都の青少年観の考察

東京都が青少年健全育成条例を改正しようとするにあたって、「非実在青少年」による性的表現が規制されるようになるということで、いろいろなところで問題になっている。青少年健全育成条例とは、私はその内容を全く読んでいないが、おそらく青少年の健全な育成に悪影響を与えるだろう作品(いわゆる有害コンテンツ)を規制するというものだろう。

この改正については、どうしても「非実在青少年」というネーミングにとらわれて、つい反対派としてはそこを攻めたくなってしまうのだが、問題はそこではない。そもそも有害コンテンツというものが存在するという仮定がまちがっている。

ここから後は有害コンテンツのことを「有害図書」と表現する。タイピングが楽だから。

有害図書とは

有害図書とは「青少年に悪影響を与えるコンテンツのこと」ではない。この悪影響の結果、無害だった青少年が有害なものに変えられてしまうと考えられているために、有害図書と呼ばれるのだろうが、そのような影響は存在しないか、無視できるほど小さい。
その悪影響が無視できないほどの効果を持っているのだとしたら、現実のいわゆる有害図書の流通量とそれに影響されたと見られる犯罪の数との乖離を説明できない。本当に影響があれば、その影響を受けたような犯罪が現実にもっと多く発生していなければならない。

もちろん有害図書それ自体が有害であるということもない。モノはそれだけが自力で人に害を与えることはできない。ページの端で手を切ってしまったとき、彼はその本のために害を受けたのだが、それはその本が有害であったのでも、書かれた内容が有害であったのでもなく、彼が不注意だったのだ。

つまり有害図書とは、単に、有害な行為(加害者と被害者が生ずる行為)をする人間が描写されたもののことである。

有害図書を読むということ

それでも、有害図書を読んだら、それに影響を受けないとは言えないのではないか、という人は多く居るだろう。居るからこそ条例案がつくられたのだ。

では、有害図書を読んだから、その内容を実行しようという人とは、どのような人か。結論から言えば、有害図書を読む前から悪事を働こうとたくらむ人だ。

有害図書を読む人や、有害図書をつくる人は、なぜ有害な行為を使って表現するのかというと、その行為が「現実ではやってはいけないこと」であることが重要だからである。実行してはいけない行為だからこそ意味があり、価値があり、面白いのだ。タブーであることを理解しなければ有害図書の内容を正しく理解することはできないのである。

有害図書に影響されたように見える人とは、タブーであることを理解して実行した人か、タブーではなく実行すべきこととして理解した人である。前者は単に悪人であって、後者は単にバカである。普通の人はそんなことをしない。有害図書をなくしたところで悪人が悪事を働かなくなるのでもないし、バカが馬鹿なことをしなくなるのでもない。

東京都の想定する青少年とは

以上の議論は人間一般を対象にしたが、これを青少年に限ったとしても特に変わるものではない。健全な青少年であれば、有害図書を読んだところでそれを実行に移すことはない。むしろそれをタブー視することをいっそう強化する(その方が面白く読めるから)。すると、東京都は青少年とはどのようなものであると考えているか、ということが見えてくる。

青少年とは一般に、有害図書を読むとそれを模倣して犯罪を犯す人、つまり悪人かバカであると東京都は考えていると推測できる。東京都が目指すのは犯罪のない社会であり、その一手段として有害図書を規制するのだとすれば、東京都の青少年観はこのようなものでなければ辻褄が合わない。

エニグモのコルシカはつまり土地を売っていたんだ

Kindleが日本でも買えるようになったということで、ぜひ手に入れようと思ったら、公式には日本語に対応していないそうで、僕のKindle貯金はすでに予定の倍以上になっています。

非公式には日本語も表示できるようだけれど、表示するだけならKindleでなくてもいい。


日本語に対応したら、とりあえず本棚の雑誌以外を全部スキャナで取り込んだあと、興味があっても本棚が埋まっていて買わなかった本を買って、それもpdfか何かにして、本のほうはバラバラになっているので全部ごみとして捨てる。

僕は本を買いたくてもそれを置いておく場所がないからKindleが欲しいのだ。液晶ディスプレイはまぶしすぎる。
3Gとか要らないから早く日本語に対応してほしい。本はamazonで買うから。


Kindleの日本語対応について調べてるために色々とブログだとかを読んでいると、日本では出版社とかの権利者が電子書籍の販売を拒むからだというようなことを書いている人が多くいたけれど、それは原因ではないと思う。
上に書いたように、紙の本を買ってスキャンして捨てればいいのだから。


出版不振だとかCD販売不振とかも僕はスペースの問題だと思う。たとえばCD100枚を、段ボールにつめて置いておくのでなければ、それなりの大きさの棚が必要になる。
CDを買っても置く場所がないからレンタルで済ますのだろうし、音楽配信は増えているのだろうし、後を引かずキレの良い売れ行きの曲が流行ってブックオフに並ぶんだろう。


エニグモのコルシカが結局は出版社に脅されて消えてしまったけれど、こういうサービスができた背景にもつまりスペースの問題があるんだろう。雑誌を買いに行くのが面倒だから、ではなくて一時的にでもそれをどこかに置いておいて然るべきときに捨てることが面倒だから、こういうサービスができた。


ところでこのコルシカ問題で、エニグモからの発表は読むことができるのだけど、日本雑誌協会が送ったという「コルシカサービスについての要請と見解」が一体どんなものなのか見つけられなかった。
「雑誌をどういう風に売るのかを決める権利は出版社にあるのだからエニグモが勝手に画像にして売るのはコピーライトに反する」というようなことが書いてあったらしいけれど、本や冊子というメディア以外で大々的に売っている雑誌は学会誌くらいしか知らない。
日本雑誌協会の会員を眺めてみても、印刷会社や運送会社や本屋は見当たらないのだけど、どうしてそこまで紙での販売にこだわるのだろうか、大体わかるけどとにかくKindleは早く日本語に対応してほしい。

Auto-Tuneに惑わされるな

Perfumeが広く知られるようになって、その特有のAuto-Tuneの使い方も広く一般的なものになったけれども、どうして中田ヤスタカのアレンジ等についてはもっと根本的なところが言及されないのだろう。


あのAuto-Tuneボイスは確かに目立つが、Perfumeはそれがために支持を受けているわけではない。ましてそれが飽きられることだけが原因でPerfumeが飽きられるということもない。あれは単なるエフェクトの一種だ。


中田ヤスタカのメロディアスなリズムとリズミカルなメロディによる作曲およびアレンジは、簡単に真似することができないからその音楽は支持を集めている。リズム楽器の音はメロディを構成する要素であるし、メロディ楽器の音がリズムを作っている。彼ひとりが楽曲に関するほぼ全てを管理しているから可能なことだと思う。


このことを文章で表現するのは難しくて、例えばYouTubeなりのリンクを貼っても説明できない。3:30〜3:35にあるスネアはメロディを補助していて、同時にここでギターは……と説明したとしても、音楽について時間を止めたり区切ったりして語った瞬間に、音楽的に欠かすことのできない感覚を失わせてしまう。


ここに最近よい例が出てきた。

iidaブランドのPLYのテレビCMに使われている曲がわかりやすい。

Original Product Archives|au

特にこの最初の2つの音が象徴的だと思う。

与えよ、さらば与えられん

道徳的な意味ではなく、単により居心地の良い社会を求めるのであれば、利他的に振舞うこと以外には有効な方法を思いつかない。


これが精神的に有効であることは特に説明しなくても分かると思う。

他人(ひと)に何かをしてもらって悪い気はしないし、他人になにかをしてあげることには満足感を感じる。他人を押しのけて前に出るときの優越感が持つような後ろめたさもない。人の役に立ち、喜ばれ、必要とされることは幸せなことだ。


そのほかにも有利な点が多い。

いちばんの利点は生き残りやすいことだろう。イワシが群れで泳ぐように、ただ集まって、そこからはみ出さないようにするだけで生き残る確率が高まる。リスクが小さくなる。
その群れが何か大きな利益を得たときには、その利益もリスクと同じように山分けされてしまうけれども、利益よりもリスクの方がはるかにクリティカルだと思う。利益は有っても無くても死なないけれど、リスクを一人で負えば死んでしまう。


どこで読んだか忘れたけれど、道路交通については個人が利他的に行動した効率が良くなるらしい。

ドライバーそれぞれが最も有利だと思う方法で運転すると、ナッシュ均衡という状態に収束して全体の効率は変わらなくなってしまうけれど、交通がスムースになるような利他的な運転をすればもっと効率の良い状態になるそうだ。現実の道路でシミュレーションすると移動にかかる時間が平均で3割くらい減るとも書いてあった。

こんなことは、わざわざ計算をしなくても分かってただろう。たいていの研究は答えが直観されてから始まるはずだから。


みんなもっと良い方法を知っている。


これが(本来の定義とは違ってしまった)個人主義とか競争主義の問題なんだと思う。最近はこの2つが同時に幅を利かせているために、悪い方向へ滑り落ちている気がする。個人主義はその集団の枠の中において適用されるものだと思うし、競争主義は集団同士の競争について語られていたものだと思う。

個人同士が競争し合う社会を望む人が、いったいどこにいたのだろう。

思ったより簡単に壊れるんだね


有名人も犯罪者も俺らと同じ場所にいる - 狐の王国
を読んで。


公的なものを激しく非難する人の感情も、こういうものなのだろうか。

公務員や行政や大企業に対して全く遠慮も手加減も無く非難する。どうしてそこまで強い姿勢をとることができるのか、僕にはよく理解できなかった。そういった公的なものは僕の生活や将来に深く関わっていると感じるので、批判はできても非難をすることにはためらいがある。

これを非難する人たちは、たぶん公的なものほど自分には関わりが無い、ゆえに非難をしたところで自身には何も影響はない、あるいはどれほど強く非難したとしても公的なものは強固であるので絶対に壊れることはないと思っているのだろう。


以前に厚生次官経験者が続けて殺されたときに、ニュースでは犯人の動機は年金に関する問題に恨みよるものではないかと推理していたが、その態度は推理からはかけ離れてほとんど断定していた。そして結局、犯人が動機は年金と全く関係ないと言ってマスコミが興味を失うまで、犯人を咎めることよりも、殺人事件をきっかけにした年金問題への非難を強めることに注力していた。これが僕は本当に恐ろしかった。行政への非難が個人の命を奪った(かもしれない)という、感情がインフレして行動にまで表れてしまった状況なのに、その非難を止めなかった。


ところで日本の政府はもう年金や健康保険からは手を引いてしまった。

今、日本には政府が運営する(保険者である)健康保険というものは船員保険しかない。そして公務員が年金の業務に関わることももうすぐなくなる。

政府はこれらの責任だけを引き受けることになって、なにかあったときは偉い人が入れ替わります。


僕らはあくまでも視聴者であって、舞台の上の公務員や政治家とは別の存在。そんな風に思う根拠は、いったいどこにあるのだろう。

公的なものが壊れていく様を客席から見守る、僕らはそんな貴重な体験をすることができる。

「こちらが……になります」という語法が正しい理由

飲食店でウェイターが料理をテーブルに置く際に「こちらが……になります」と言うことについて、これの「なります」の部分を捉えて、これが何か別のものになる(変化する)のか、文法的におかしいのではないかと言うのが一時期は流行った。


もちろん文法的には何も問題は無い。主語も述語も省略されておらず完全な文になっている。


そうではなくて、ここで一般的に違和感を持たれるのは「なる」の意味だ。
この「こちらが……になります」の語法への批判がされるときには、なぜか「なる」には「変化する」という意味しか与えられていないけれど、そんな単純な語ではない。
辞書を引くと多くの意味が載っている。
沈黙は金雄弁は銀(ちんもくはきんゆうべんはぎん)の意味 - goo国語辞書


いちばん初めにふさわしい意味が載っているじゃないか。
「なる」は「完成する/実現する」という意味だ。
「こちらが……になります」とは「ここに……が完成しました」ということであって、もう文法的にも意味的にも全く問題が無い。


それでもやっぱり不自然だという人がいる。
彼らが言うには「こちらが……になります」ではなくて「こちらが……でございます」が正しいらしい。

僕は両方とも正しいと思うけど、ウェイターが料理をテーブルに置く時という状況においては「こちらが……になります」の方がよりふさわしい。
絶対にその料理や商品を受け取る人がいるからだ。
僕は店員に「こちらが……でございます」と単に事実だけを告げられても何と返答してよいのか困る。
「こちらが……でございます」から開始される会話はありえない。
中学校で初めて英語を習うときも、その教科書の登場人物が挨拶もせずに突然"This is a ...."から会話を始めることは絶対にない。


直感的な判断ではあるけれど、店員と客は会話をする必要があるので、「これは……です」ではなく「ここに……が完成しました」と言うことで相手がそこへ入り込む隙を作り、会話へと持ち込もうとしているのだと僕は思う。